海の近くに住みたい
話題:種子島 2013年秋
公開日時: 2013年09月26日 06時02分54秒
昨日は死ぬほど疲れてゐたのに夜遲くまで起きてゐた。普通ならかういふ時は夜まで爆睡といふことになるが、今日はさういふわけにはいかない。折角種子島に來てゐるのに無駄に過ごすわけにはいかない。今日は晝前に祖母の七囘忌の法要を寺でやる。その前に牧川の祖父の墓に行くやうなことを言つてゐた。本當は昨日行くつもりだつたみたいだが、遲い時間に墓參りはしないものだと言はれたやうだ。夕方に墓參りしてゐるところを見られたらまた何を言はれるか分からんと。だから今日、寺に行く前に早朝に行くみたいに言つてゐた。當然俺もついて行くつもりだつた。異常に早い時間からみんな起き出してうるさかつたので一應目は覺めたのだが、起き上がれなかつた。時計を見たら6時半。なんでそんな早く起きて活動できるんだ。何とか苦勞して起き上がつたら親達は既に出掛けてゐた。ふざけんな。そんな7時前に慌てて行かなくても良いだらうに。俺が起きて着替へるのくらゐ待てや。
もう少し起きるのが遲かつたら叔父と從妹も出掛けて一人取り殘されるところだつた。危ない危ない。何とか起きて牧川へ。颱風の影響なのか、少し雨。納官、寶來、濱津脇、牧川と、懷かしい風景を眺めながら叔父の車で草ノ木へ。坂の下の邊りに變な建物ができてゐた。發電なんたらと書いてあつたが何の建物か分からん。最近見たGoogleのストリートビューでは草むらになつてゐるのでごく最近できたものだらう。そこに親達のレンタカーが置いてあつた。近くの墓に行つてゐるんだらう。叔父と從妹と俺はそのまま祖父母の家まで行つた。草や横の木が激しくて車でそのまま上がつて行くのは厄介な感じだつた。少し下の隙間に車を停める。雨が降つてゐたが、少し弱まつた隙に出て走る。スズメバチが怖い。人が住まなくなつて長いから倉庫や家に巣があるかもしれない。今の時期は攻撃的になつてゐるので非常に危ない。でも叔父達は氣にする樣子も無く入つて行く。どうやら大丈夫さうなので俺もついて行く。凄まじい荒れ方。こんなに草が生えるのか。地面はコンクリートで固められてゐるが割れたところや剥がれたところからアホみたいに草が生えてゐる。これは酷い。
家の鍵は以前は外の倉庫に置いてあつたが、今は古田の大叔父が持つてゐると聞いた。叔父がもう1つ持つてゐるが、持つて來るのを忘れたらしい。入れないかと思つたが、裏の風呂の近くのドアが開いてゐた。誰が開けたんだ。洗濯機や冷藏庫を欲しがつてゐる人がゐてあげたと聞いた。それらを運び出す時に閉めずに放置したのかもしれない。そのおかげで入ることができるんだが。中は凄かつた。一應靴を脱いで入る。でも靴のまま入りたいぐらゐの感じ。埃や蟲の粉が凄い。どこかから風や雨が吹き込んだのか、笹の葉みたいなあり得ないゴミも少し入り込んでゐる。そして、叔父のPCが置いてあつた邊りの天井が拔けてゐた。人が住まないだけで何故天井が拔けるのか意味が分からない。やつても無駄かもしれないが、とにかく少し掃除をする。電氣が生きてゐれば掃除機が使へる。ブレーカー上げてくれと頼まれたので上げる。でも無反應。やはり電氣は止められてゐる。と思つたが、幹線の配線用遮斷器しか上げてゐなかつた。分岐囘路のも全部入れろよ。寢惚け過ぎ。これでも俺は電氣工事士の免許を持つてゐる。すげえだろ。泣けて來るわ。前囘來た時に免許があればあそこまで苦勞することは無かつたかもな。もう少し早く何とかできてゐたかも。まあ昔のことはいい。前囘來た時はまだ腦トレ資格試驗なんてやつてゐなかつた頃なんだな。最近のやうな氣がするけどな。その短期間で隨分色々變つたものだ。結局、分岐のブレーカーを入れても何をやつても無理だつた。根元から切られてゐる。わざわざ電力會社の人が切斷しに來たんだな。電柱に登つてブレーカー入れればOKだらうが、バレたら電力會社に訴へられるかもしれない。仕方が無いので適當に箒で埃や蟲の死骸を始末する。玄關の鍵も開ける。かなり酷い状態だ。人が住める状態にするにはかなり手を入れないとダメだらう。ほんの數年でこんなになつてしまふんだな。臺所に變な植物が蔓を這はせてゐるし。それにしてもやはり天井が拔ける理由が分からん。人が住み續けても同じやうに拔けてゐたんだらうか。猫か何かが住み着いて踏み拔いたのかもしれんな。いや、それだと脱出不可能になつて家の中で死んでゐるはず。何なんだらうな。疊の上と廊下と玄關だけ適當に掃いて外に出る。やはり草が凄いな。坂の下を見たら親達がゐたので行つてみることにした。
この坂を歩く感覺も懷かしい。海の匂ひも心地良い。天氣は少し惡い。颱風は種子島を掠めることもなく東海・關東の方に向ひつつあるが、影響は多少あるらしい。風もそこそこ強いし雨も少し降つてゐるし波も少し荒い。坂の下で親や叔母達と合流。もう墓に花を供へて墓參りは適當に終らせたやうだ。雨のせゐでまともにやるのは困難。で、今から坂の下のお婆さんの家に行くところだと言ふ。親戚なのかただの近所の人なのかいまだによく分かつてゐないのだが、祖母が仲良くしてゐた人だし色々世話を燒いてくれる。お節介で鬱陶しく思つてゐる人もゐるだらうけど。こんなところまで來て墓參りもしておいて顏も出さんわけにもいかんだらう。この人はここら邊の土地を多く持つてゐるやうだ。祖父母の家の裏の畑もさうだし、祖父母の家が建つてゐる土地もこの人に讓つて貰つたとか。うちの祖父母は今の家を建てる前はもう少し上の方の山の中の道路の上に勝手に家を建てて住んでゐたらしい。變り者だよな。やはり俺は種子島の祖父に似たのかもしれん。無駄に頑固なところは祖母に似たかも。性格や人格の面では母親の方からの遺傳の影響が強いな。種子島系の親戚は本當に變り者が多い。種子島が面白いと思ふ理由の1つかもな。で、この坂の下のお爺さんは寢たきりなのか、俺は一度も顏を合せたことが無い。昨日、大叔父の家か野間の居酒屋か、どこかでこの人の話題が出てゐた。腦血栓か何かをやつてから人格が變つて攻撃的になり、介護の人とかに暴力を振るつたりして病院を追ひ出されたとか何とか。大變だな。親達について行つたら家の奧からそのお爺さんの叫ぶ聲が聞こえて來た。俺は會つたことが無いからどんな人だか知らないが、親が言ふにはそんな叫んだり暴れたりするやうな人ではなく温厚な人だつたらしい。腦は怖いな。俺も腦の血管が切れて死なずに奇蹟的に復活したら突然眞人間になつてゐて眞面目に働き始めたりするやうなことが起こり得るんだらうか。恐ろし過ぎる。俺は俺のままでゐたい。
道路に出て行つたら丁度叔父と從妹が墓の方から出て來るところだつた。車も家の方に置いてあるし、バケツ等も家に戻さねばならんので叔父と從妹はまた坂を上がつて行つた。どうせふれあひの里に歸るだけなので、親達の車で歸ることにした。あの坂を歩いて上るのは結構つらい。結局、俺だけ祖父の墓に行かなかつた。草ノ木まで何しに來たんだ。祖父母の家がどうなつてゐるか見てみたかつたので目的は果たしたけども。また後で來ることになるだらうとは思ふがどうなるか分からん。親の同級生が家の庭にあるアマリリスか何かの球根を欲しがつてゐたのでそれを取りに來ることになるんぢやないかと思ふ。どうなるか分からんけど。もしかしたらみんなで家を大掃除することもあるかも。時間的に嚴しいかな。
野間へ戻る。まだ8時にもならない。活動するのが早過ぎるわ。だからと言つて動き始めるのが遲過ぎて時間が足りなくなつて絶望感を味はふ俺みたいなのもダメだと思ふが。まあ早い方が良いのかもしれんな。
草ノ木に行つてゐる間に親の同級生がおにぎりとかを作つてふれあひの里に持つて來てくれてゐた。洗濯物を干したりするところに置いてあつた。それが朝飯。ここで衝撃の事實が發覺した。「しぐれ」は全國共通の標準語ではないんだな。アサリの佃煮のことなんだが、東海地方でしか使はれてゐないのかもしれない氣配。いや、微妙に佃煮とも違ふな。生姜を入れた砂糖醤油で煮たやつ。まづ從妹か叔父がしぐれつて何とか言ひ始め、親がしぐれを知らないの?と驚きつつ嘲るやうな反應を示す。從妹は子供だから色々知らなくても仕方が無いが叔父が知らないのは意外だ。他は全員知つてゐるだらうと思つた。しかし横濱の叔母も知らないと言ふ。親や下の叔母は東海地方で長く暮らしてゐるし、親の同級生も長く岩倉に住んでゐた。俺も東海地方で生まれ育つた。ごく當り前に使つてゐた「しぐれ」が通じないことがあらうとは夢にも思はない。コンビニのおにぎりでも普通に「しぐれ」と書いてあるぞ。他の地域ではどう書いてあるんだらう。そもそもしぐれのおにぎりなんか無いのかな。さう、これなんだ。通じないなんてことは全く考へもせず當り前に話したことが相手に通じてゐないことがある。方言の恐ろしさ。外部の人間がどれほど種子島辯を理解できてゐないか、種子島人には分からない。氣を使つて分かりにくさうなところを分かるやうに言ひ替へてくれても他の氣にも留めてゐなかつた部分が理解されてゐなかつたりするのだ。可兒に歸つてから調べてみたらしぐれは三重の桑名が發祥の地らしい。東海や關西の方に廣まつてゐるやうだ。アサリだけでなく牛肉などもしぐれ煮といふらしい。ああ、確かに肉のしぐれも食つたことあるわ。一般的に貧民にはしぐれと言へばアサリだらう。
飯と一緒にさりげなく置いてあつた葡萄が激烈に美味かつた。粒がプルーン竝のデカさ。デカいと味もあまり良くなささうなイメージがあるが、激烈に美味かつた。しかも種が無いので激しく食へる。親の同級生の旦那さんの元同僚だか知り合ひだかが岡山で葡萄農園をやつてゐて送つて來るらしい。こんな美味い葡萄は食つたことが無い。たぶん滅茶苦茶高級なやつなんぢやないかなと思ふ。誰よりもたくさん食つた。無限に食へるぜ!
飯の後、しばらくしてから寺へ。南界にある浄光寺で10時からだつたと思ふ。その邊の田島に親の知り合ひの親戚がゐる。祖父の十三囘忌の時に種子島まで一緒に來た人の親戚が田島に住んでゐると聞いてゐる。俺とは何も關係が無い人だが。ここら邊に四元酒造があるのでその人は直截そこに酒を買ひに行くと言つてゐた。7年半前に來た時、俺は種子島の燒酎は1mlも飲んだことがなく、土産にどれを選ぶべきかも全く判斷しやうがなかつた。親傳ひにその人から島黒が美味いと聞き、可兒の親と弟にそれを送つた。弟や親が知り合ひにも飲ませて好評だつたやうで追加でもう1本買つて送ることになつた。2007年に來た時、俺もAコープで買つて飲んだ。あの日だよ。原付のエンジンが掛からなくなつてドラッグイレブンの駐車場でアホみたいにキックし續けて漸く掛かつたと思つたら突然凄まじい豪雨に襲はれて雨の彈丸で強烈な痛みに苦しめられ、海に落ちたやうにズブ濡れになつて歸つて猫の叔母や叔父に爆笑されて家に入らず風呂場に直行したあの時。確かに島黒は美味かつたよ。
まづは野間のAコープへ。お供へする花や果物を買ふらしい。近くのガソリンスタンドを見たらガソリンが179圓だつた。石寺・長谷・野間の國道沿ひのスタンドが種子島最安だ。それでもこの値段。離島は高いな。Aコープ懷かしい。種子島滯在時には激しく世話になつた。Aコープが無かつたら島民はだいぶ不便を強ひられる。西之表のだいわだけだと相當キツいだらう。最初に花屋で適當に花束を作つて貰ひ、次に寺に持つて行くのに良ささうな果物を探す。果物盛籠が無かつたので親が店の人に聞いたら作つてくれると言ふ。箱に入れる1000圓のと、籠に入れる3000圓のがあるらしい。當然1000圓のやつだらうと思つたが、當然のやうに3000圓のを注文してゐた。金錢感覺が違ふな。10分ぐらゐ掛かると言つてゐた。ここで便意に襲はれた。昨日から相當食つてゐるが、まだウンコになるには早過ぎる。一昨日以前の物が押し出されてゐるな。一昨日にらいんの湯で食つた野菜炒め定食だらうか。Aコープの便所で屠つておかないと寺で大慘事になるかもしれない。二度と來るなと言はれてしまふと親や親戚にも迷惑が掛かる。ここで必ずウンコを流し殺す必要がある。このAコープの便所でウンコをしたことは過去にもある。暇人は過去の日記を丹念に調べて探してみろ。おなす海岸を探してウロウロしたり、のりはま海岸で原付のエンジンが掛からなくなつたりしたあの日だ。どうでもいいことを無駄によく憶えてゐるだらう?毎日日記を書くとかういふことになる。忘れてしまふよりは憶えてゐる方が面白い。お前らもやつてみると良いよ。人に見られたくなかつたら自分のPCにだけ保存しておけば良いし。そんなことはどうでもいい。便所に入つたら2つあるウンコ部屋のうち1つは使用中だつた。もう1つはドアの端の金屬が曲がつてゐてどうやつてもドアが閉まらない状態だつた。こんな狙はれ方があるのか。急激に成長する便意。全く出る氣配の無い先客。ドアの閉まらない空室が俺をせせら笑ふ。顏面蒼白。どうしやうもないのでひたすら待つ。でもじつとしてゐるのもつらい。また店内に戻つてウロウロしてみたりする。まだ果物はできてゐない樣子。もう少し待つてくれよ。今できてしまつてすぐに寺に行くやうなことになればとんでもない未來が待つてゐるぞ。土産品のコーナーの邊りにみんなゐた。ウンコ我慢しながら黒砂糖を試食してみる。昔はアホみたいに硬くてまともに食へなかつた。庖丁でガンガン叩いて砕いて食つてゐた。今では製法が變つたのか、簡單に手で粉末にできる。逆に柔らか過ぎるくらゐだが隨分食べやすくなつた。味も良くなつた氣がする。自分用に買つて行きたいが、今買ふと邪魔になるだらう。空港は高いから嫌だ。またAコープやだいわで買ひ物する機會もあるだらう。再び便所へ。空室!素晴らしい安堵感。無事にウンコを流し殺し、店内に戻つて少しして果物籠完成。全然10分ではなくだいぶ長く掛かつた氣がするが、密かにそれに助けられた。ありがたう。あの時俺が便意に苦しめられてゐたなんて誰も知らないだらう。同じやうに他の人が密かに便意に苦しめられてゐる場面に俺がゐたこともあるのかもしれない。ウンコは人類共通の敵である。誰かが何とかしなければならない。ウンコを完全にコントロールする技術を確立した奴にノーベル平和賞を與へよう。まあオバマみたいなカスでも貰へるやうな無價値な賞だけどな。もし人類が便意を克服できるやうになつたら鐵道會社が一齊に運賃を値上げすると豫言しよう。俺の被害妄想や陰謀論などではなかつたことが確實に證明される。さう言へば2007年夏に種子島で暮らしてゐた時に、所信表明演説の翌日にいきなり辭意を表明して總理大臣をやめた無責任な奴がゐたな。あれもウンコが原因だつたと後で言つてゐた。便意に苦しめられるつらさは痛いほど分かるがあれはさすがに擁護できんだらう。また懲りずに總理大臣をやつてゐるがあの頃より酷くなつてゐるね。ウンコではなく政治の方が。
寺へ。何度か行つたことがある。寺の前の國道58號はバイクで死ぬほど走つた。この邊りでは坂井神社周邊のものが色々有名。日本一の大ソテツ、矢止石、古市家の住宅。わざわざ遠くから見に來るほどの物ではないが、種子島に來たらソテツは一應見ておけ。そんなもの見ても特に感動は無いけどな。早朝は颱風の影響で風雨が少し激しかつたが、もうすつかり晴れて良い感じになつてゐた。一應黒つぽい服を着て來たがあまり氣にしなくても良いかもしれない。種子島は結構いい加減だからな。通夜とか葬式でも普段着みたいなので來る人もゐるしな。通夜は豫め死を豫想して準備萬端でしたみたいなのを避けるために敢へて適當な服で慌てて驅けつけたみたいな演出をすることがマナーであるみたいなことも聞いたことがあるが、地方によつて色々違ふだらう。冠婚葬祭のマナーとか死ぬほど面倒で鬱陶しいよな。派手ではなかつたけどもアロハシャツみたいなので葬式に來た人もゐた。それはさすがに異端だらう。寺で數珠を貸して貰へる。種子島では自分で數珠を用意する人などほぼゐない。祖母の葬式にも數珠を持つて來た人は見掛けなかつた。中に入つて祖母の位牌の前で線香を上げる。坊さんの準備ができて七囘忌の法要開始。座つてお經を聞く。豫めどれくらゐの時刻に終るか教へてくれた。35分くらゐ掛かるやうだ。それだけお經を唱へるのもかなり大變だらう。前の坊さんの時は南無妙法蓮華經の題目に合はせて太鼓を叩いた。丸型の手鏡を巨大にしたやうな形のやつを「法」「華」「經」のタイミングで叩く。でも新しい坊さんは太鼓はやらないやうだ。前の坊さんは30歳過ぎた俺を大學生だと思つてゐた。あまりにも長く種子島に滯在してゐたから社會人であるはずが無いといふのもあるが、社會經驗の無さから立ち居振る舞ひや言動が大人とは思へない、惡く言へばガキつぽいので學生だと思つたんだらう。決して外見が若々しいとかさういふことではなかつただらうと思ふ。それも20代後半とか30ぐらゐまでなら良いかもしれないが、年を取つて明らかにヲッサンなのにガキみたいな言動になるとキツいよな。今の俺がかなりさういふ領域に突入してゐると思ふ。もう中學生ぐらゐの子供がゐてもをかしくない年齢だぞ。でも俺自身が小學生と對等に渡り合へるほどの精神年齢だ。社會生活不適合者を極めるとどうなるんだらうか。そんなことはいい。お經中に死ぬほど眠くなつた。昨日は最初から激烈な睡眠不足だつたのに無理し過ぎた。しかも今日も激しい睡眠不足だ。いつ倒れてもをかしくない。そんな状況で靜かに座つてお經を聞いたら當然かうなるに決まつてゐる。激しく舟を漕ぐ。何度もビクン!と目が覺める。勿體ない。法事なんて滅多に體驗できるものではない。一應これが目的で種子島に來てゐる建前だ。寢るな俺。しかしこんなに眠いのが許されて良いのか。クッソ眠い。完全に寢てしまつて「ゑりりん・・・」とか呟いてしまひさうで怖い。どうせ誰も讀んでゐないからどさくさに紛れて言ふけども、俺は龜井繪里が好きだ。ゑりりんゑりりん!!あぁ眠い。アホみたいに眠い。こんなに眠い。寢ないために疊の枚數を數へてみた。祭壇のところも含めると44疊。お經の後半で燒香。助かつた。寢ないで濟む。從妹は何故かやらなかつた。眠かつたらしい。でも俺の方が間違ひ無く眠かつただらう。無事にお經も終り、坊さんの話を聞く。インドから中國に渡つてお經が文字化されたとか色々話してゐたがあまり憶えてゐない。師匠からあまり長々と話すなと言はれたと言つてゐた。終つた。これだけのために飛行機で來るのはやはり大變だよな。どうせ來るならもう少し長く滯在しないと勿體ない。次は祖父の二十三囘忌が2年半後、祖母の十三囘忌が6年後。俺はもう來れないだらうな。寶籤を當てて種子島に住むつもりではゐるけども、當るかどうかは確率の問題だ。しかも絶望的に低い確率。先のことはどうなるか分からない。俺が死ぬ可能性もあるしな。
さて、今囘の種子島旅行の目的である法事は無事に終つた。あとは17日の朝まで自由だ。しかし俺には足が無い。レンタカーを借りる金も無い。殘りの1日半をどう過ごすか。イカはまだ小さ過ぎてまともに釣れないかもしれない。いや、そろそろ何とか食へるサイズが大漁だらうか。でもまづ颱風の影響で時化てゐるから海系は無理か。泳ぐのも危ない。釣りをするにも草ノ木の家に道具を置きつぱなしだから取りに行かねばならんし海まで送り迎へして貰はねばならんし、かなり難しいな。車は親が借りたやつと叔父が借りたやつの2臺ある。どちらかについて囘るか。今後他の人の豫定がどうなつてゐるか知らない。叔父と從妹は明日の夕方の飛行機で歸るやうだが今日はどうだらう。親はどうするんだらう。叔母はどうするんだらう。たぶん親や叔母は種子島の知人に會ひに行くだらうと思ふ。バイクでもあれば懷かしい種子島を走り囘れるんだがな。さう言へば昨日鹿兒島空港で飛行機を待つてゐるくらゐの時間に鹿兒島でイプシロンの打ち上げがあつて今囘は無事に成功したらしい。種子島の打ち上げは次はいつだらう。生で見る機會はもう無いかもしれんけど。
晝は野間の店に飯を食ひに行くらしい。祖母がチャンポンが美味いと言つてゐた店で親がチャンポンを食ひたいやうだ。俺もその店には祖母と親と猫の叔母と4人で行つたことがある。その時は味噌ラーメンを食つた。チャンポンを食へよと祖母に言はれたんだが、もう注文してしまつたし訂正するのも面倒でそのまま味噌ラーメンを食つた。次來た時にチャンポンを食はうと思つた。その後いくらでも行くチャンスはあつた。2007年だけでも相當長い期間ゐたし、2008年もアホみたいに長く暮らした。2009年は短かつたが行かうと思へばいくらでも行けた。でも何故かあれ以來一度も行つてゐない。つひに今日行ける。どれほど美味いのか俺も祖母の好きだつたチャンポンを食つてみたかつた。しかし無殘にその店は休みだつた。今日は運動會。子供は少ないが地域總出で應援するんだらう。きつと今日は休みの店が多いに違ひ無い。仕方が無いのですぐ近くの別の店へ。客が多かつた。常連と思しき爺さんが席を移動させられてゐた。スマンね。それぞれ違ふものを注文すると出て來るのが遲くなると店の人が言ふ。同じものを頼めば少しは早く出るのだと。まあ大差無いだらうな。俺と下の叔母が味噌ラーメン。從妹がオムレツ定食。他はラーメン。だつたと思ふ。1時間ぐらゐ待たされた。見た目は美味さうな感じの濃い色だつた。種子島だから甘いかもしれんなと思つて食つてみたが、豫想外の味だつた。味が異樣に薄い。サラダ油を舐めてゐるやうな。チャーシューは美味いんだが、汁に味が無い。こんなに色が濃いのに。不思議だ。最後の方はつらくなつて鹽と胡椒を大量に入れて食つた。親のラーメンの汁を少し貰つたが、これも薄味だつた。だが味噌よりは濃い。外れだつたのか何かを入れ忘れたのか俺の舌がたまたまをかしかつたのか。まあ少し殘念な感じ。
午後は親と叔母は知人に會ひに行き、古田で芋を貰つて歸つて來るつもりらしい。夜は親の同級生達が飯を用意して、ふれあひの里で宴會だ。叔父は草ノ木の家に行つて草刈りや掃除をするらしい。從妹は家に殘つて宿題だと。可哀想に。でも叔父について行つて掃除するのも子供には死ぬほど大變だし、うちの親達について行つて全く知らない人に會ふのもつらいだらう。俺はどうしようか。從妹と殘つて行政書士の勉強なんてのは絶對にあり得ない。長期滯在なら引き籠もつても良いが、限られた日數をつまらないことで消費したくない。祖父母の家に行きたい氣持ちが強い。何だかんだで1年近く住んだしな。うちの親よりも俺の方があの家で長く暮らしてゐる。うちの親はあの家でまともに生活したことが無い。中學か高校か知らんが學校を出て名古屋の方に出て行く頃かその後か、今の家はさういふ時にできたものらしい。今の家で暮らしたことは無いさうだ。親は歸省で俺より多く種子島に來てゐるが宿泊日數で言へば俺の方が壓倒的に多い。親よりも俺の方があの家に對する思ひ入れは強いだらう。掃除しても誰かが住まないと荒れる一方で意味が無いんだけどな。それでもやらないよりはやつた方が長く殘せるだらう。まづあの家を殘すつもりなのかどうかといふこともあるが。誰か借りたい人がゐるらしい。廢屋を修繕して借りるのにどこからか補助金が10萬圓出るとか何とか言つてゐた。10萬では住める状態には戻せないだらうが、それは住む奴が何とかすればいい。だが、他人に貸すと家は殘るが自分達は使へなくなる。しかし放置して廢墟になつて朽ち果てるのも忍びない。身内の誰かが住んで維持すれば良いのにといふ話もよく出る。さういふ時必ず俺が住めば良いといふやうな話になるが、不可能なのだ。まづDebugがある限り無理。解散や脱退後ならバンドは問題無いが、解散はしさうにないし、自ら脱退もあり得ない。バンドの問題が無いとしても、暮らして行くための金が無い。光熱費や食費を拂へない。食料は半分以上自給自足できたとしても、ネット代や電氣代やガス代は必要になる。それ以外にも遊ぶ金も要るだらう。人口の少ない島のパチ屋で生活費を稼ぐことは不可能。働くといふ選擇肢は無い。といふことで、いつも言つてゐるやうにまづは寶籤を當てないことには何も始まらない。自分の家を建てるにしても祖父母の家を修繕するにしても種子島で生活するためには必ず寶籤に當籤する必要がある。何故働かないのかと言はれても決めたことは必ずやり遂げねばならんから絶對に働けないのだ。やはり俺がバンドを辭めて人生を諦めて種子島で働きながらあの家に住むといふのが他の人からすれば最良の選擇なんだらう。俺ほど自由に身動きが取れる人間もゐないしな。俺の人生設計では寶籤を當てて種子島に自分の家を建てて種子島で暮らしつつ、Debugの練習やライブのために時々可兒に歸るといふのを考へてゐる。自分の家でなく祖父母の家を維持しながら住むのでも別に良いが、Debugのために頻繁に歸るには飛行機代等でかなり金が掛かる。やはり寶籤を當てないと無理なのだ。あの家はどうなつて行くんだらう。貸すことにも消極的な感じだし、住む人もゐないし、荒れて朽ち果てるのも嫌だし、更地にしてしまふのも殘念な感じがする。できればずつと殘しておいて欲しいけどな。でも俺には決める權利が無い。とにかく、叔父は今日あの家の草刈りに行くやうだ。そちらの手傳ひをしたいが、親と一緒にまだあまり知らない人達の家に遊びに行つてみたい氣持ちもある。親について行つた方が種子島の風景をたくさん見ることもできる。迷ふ。結局親について行くことにした。そちらの方が面白いことに巡り逢へる可能性が高さうだと思つた。面白いかどうかが俺の判斷基準だ。
國道を北へ。西之表に住んでゐる親達の從姉に會ひに行くらしい。俺の知つてゐる人だらうか。いつだつたか、肺癌の人の葬式の時だつたか、親はそこに泊めて貰つたといふやうなことを聞いた。西之表の甲女川よりも北側の山の上の方だと言ふので俺は行つたことが無い。どういふ關係なのか詳しくは知らない。祖父の兄弟については屋久島に誰かゐるみたいなことを祖母が言つてゐたが、種子島にゐる話は一切聞いたことが無い。祖母の兄弟關係だらう。親の從姉とは誰の娘なのか。古田の大叔父ではなからうと思ふ。鹿之峯の人だらうか。イケダパンの人だらうか。それ以外は知らないが他にもゐるんだらうか。謎だ。
途中、能野の濱上ストアに寄つた。親や叔母がここで何か海鮮系のものを買つて家に送るやうだ。生簀があつて魚や海老が生きたまま置いてある。前に來た時、イセエビとゾウリエビは小さいやつが空港で7000圓とか8000圓とかふざけた値段で賣られてゐた。今は空港の賣店の水槽が無くなつて空港では買へなくなつてゐる。この店ではどれほどの値段なんだらうか。値段は書いてゐない。地元の人か何か分からんが、知らない人がイセエビを買つてゐた。小さめのサイズだつたが1匹3500圓。良心的な値段なのかもしれないが、俺には買へない。100萬ぐらゐ持つてゐても躊躇する値段だ。冷凍の水イカ(アオリイカ)もクソ高い。アオリイカは他所では高級品だが種子島にはたくさんゐる。しかも種子島ではどういふわけかかなり巨大化するのでイカ釣りが趣味の人の間では少し有名だつたりする。サムズといふホームセンターがあるが、毎年そこで釣りコンテストみたいなのをやつてゐて、サムズのサイトの釣り掲示板でイカの畫像が出てゐる。イカは1年しか生きない。春に産卵して死んで、夏に生まれて秋頃に小さいのが釣れ始める。冬は深場に行くので釣れなくなるみたいだが、春のGW頃に産卵のために淺場に來る超巨大なやつが釣れる。この春の時期にイカ釣りのコンテストみたいなのが行なはれるやうだ。ある程度長い期間開催され、その期間中に釣つて店に持つて行つてエントリーするみたいな形式らしい。西之表港や濱津脇港の沖堤でよく巨大なのが上がつてゐるやうだ。今の時期に店で賣られてゐる超巨大なアオリイカは春に獲れたもの。アオリイカは冷凍しても味が落ちないので保存性に優れてゐる。1匹5000圓とか、高いのでは1萬近くしたりする。たかがイカなのにそんな金出せるか。イカごときにそんな大金出すなら俺はイセエビを買ふ。イカごとき、と思つてしまふのは普段食つてゐる安いスルメイカやヤリイカと比べるからだらう。アオリイカが高級品だと言はれても所詮ただのイカとしか思へない。食つたことはあるんだが、他のイカと比べて著しく味が良いといふ氣はしない。でも俺が食つたのは囘轉鮨だからな。僞物の可能性が極めて高いよな。本物は食つたことが無いのかもしれない。親も叔母もこの冷凍のアオリイカを買つてゐた。金持ちだな。どうなつてゐるんだ。俺が貧乏過ぎるのか。冷凍のトッピー(トビウオ)やカマスも賣られてゐた。モハミ(ブダイ)も賣つてゐる。種子島に來たんだなとしみじみ思ふ。トビウオを自分用の土産に買ひたいなと思つたが、今買ふと邪魔になるだらう。親みたいに買つてその場でクロネコヤマトに頼むなんてことは俺にはできん。ある程度の量を買ふなら宅急便で良いが、普通に鞄に入る量では送れない。しかし冷凍物を今日1日持つて歩くわけにもいかない。またそのうちAコープやだいわに寄ることもあるだらう。
懷かしい。よきの海水浴場。2007年に來た時、颱風連發のせゐで3週間ぐらゐ引き籠らされ、漸く梅雨明けして一發目の遠出でこの海水浴場で泳ぐことを決めた。そしていきなりバイクのキーを紛失し、こんなところから草ノ木まで約10kmも歩いて歸るといふ地獄を味はつた。眼鏡をバイクのシートの中に封印してしまつたこともあり、その後は引き籠つて慘めな暮らしだつた。犬土偶日記を書くためのテキストエディタも文字サイズを巨大にして書いてゐたな。親とか横濱の叔母とか能野の人に隨分迷惑を掛けた。懷かしい。アホ過ぎて泣けて來る。1999年に來た時はここで泳いでアホみたいに背中を日燒けして苦しんだ。よきの海水浴場ではあまり良い思ひ出が無いな。
横濱の叔母の旦那さんの親戚が能野にゐる。墓もある。でも寄つて行かないらしい。そのまま西之表へ。だいわの横の道を上に上つて行くらしい。だいわの行き方が分からんと言ふ。甲女川の手前を右にとかボケたことを言ふ。いや、橋を渡つてから川沿ひに右に行くんだぞ。まあ左岸を遡つても行けるが少し遠囘りだ。だいわも懷かしい。ここもAコープと同じくらゐ世話になつたな。TSUTAYAができたのでここで本やCDも買へる。だいわのすぐ手前の道を左へ。山を上つて行く。この道は通つたことが無い。初めて行くところに興味津々。島のことは隅々まで分かつてゐるかのやうに偉ぶる割に意外と行つてゐない場所は多い。親達の從姉の家がどこにあるのか知らんので俺はもう默つて車に乘つてゐるだけ。だいわの横から上がつたことは無いが、このまま行くと東町から種子島高校に行く縣道75號に合流しさうな氣がした。親達がここら邊だつたやうな氣がするとか、右に曲がつたやうな氣がするとか、物凄く不安にさせるやうなことを言ふ。正確な場所は分からんらしい。みんな方向音癡だからこのままでは辿り着けんだらうなと思つた。やはり自力では辿り着けず、電話で聞いてゐた。遠藤造園か何かの看板のところにゐたんだが、その近くではあるらしい。電話で聞いても結局辿り着けず、迷つてゐたところでその從姉の旦那さんに遭遇。探してくれてゐたやうだ。その先導で何とか辿り着けた。これは一寸分かりにくいな。その旦那さんは見たことがある。少し話したこともあるかもしれない。ただ親の從姉は見たことがあるやうな無いやうな。たぶん何度か會つて話したこともあるかもしれないやうな氣がする。
家に上がつて雜談。なんと毎週草ノ木に來て祖父の墓參りや掃除をしてくれてゐるらしい。なんでそこまでしてくれるんだ。密かに祖母に想像を絶するやうな巨大な借りでもあるんだらうか。菓子やら茹で落花生やら角卷きやらをご馳走になつた。小豆の入つた角卷きは初めて食つた。角卷き(つのまき)といふのは餠米を灰汁で煮るのか蒸すのか、作り方はよく分からんがとにかく灰汁で黄色い色をつけて笹の葉みたいなので包んだちまきのやうな物。米の粒が結構そのまま殘つてゐるのでちまきといふよりはおはぎに近いかもしれないが、何か獨特なものだな。そんなに激烈に美味いものでもないんだが、たまに無性に食ひたくなる。黒砂糖の粉をつけて食ふ。
家の横に1つ小屋を増設したみたいになつてゐてお婆さんが住んでゐた。誰?祖母の姉妹?それとも親の從姉の旦那さんの親?何だかよく分からないが親達と親しげに話してゐた。さらに近くの家に住むもう一人のお婆さんに會ひに行つた。誰?すごく老けてゐる感じでもしかしたらもう一世代前の人か?とも思ふが、そんなわけは無い。全然分からない。俺の知らない祖母の姉なのか?癡呆が進んでゐるらしい。祖母の話が出た。元氣にしてるか?と。もう6年前に亡くなつたと言つたら驚いてゐた。しかし1分も經たないうちにうちの祖母は元氣かと聞いて來る。で、また亡くなつたことを知つてショックを受ける。その調子だと永久に物凄いショックを與へ續けることになるから元氣だと言つておけば良いのではないか。結局誰が誰だか分からないまま歸る。
だいわに寄る。古田の大叔父の家に芋を貰ひに行くのだが、送るための段ボール箱を調達する必要がある。ついでにインスタントコーヒーや俺用の菓子も少し買ふ。さらに大叔父にあげるお礼の燒酎。滅茶苦茶燒酎が好きでガバガバ飲んでゐたが、どうも健康診斷で引つ掛かつたらしく2ヶ月ぐらゐ斷酒して復活したと話してゐた。それからは飲む量を決めて少しづつ飲んでゐると言つてゐた。燒酎よりも何か健康に良いものをあげれば良いのに。で、俺に燒酎を選べと言ふ。無理。大叔父がどんな味の燒酎が好きなのか全く知らん。西之表の人は久耀や甘露をよく飲む。單に地元の酒造會社のを飲んでゐるだけで、好きで飲んでゐるわけではないと思ふ。中種子の島乃泉、南種子の南泉も同じだらう。住んでゐる地域によつて好きな銘柄がみんなキッチリ同じなんてのは不自然過ぎるからな。種子島の芋燒酎は安納芋系と紫芋系とそれ以外がある。麹は黒麹と赤米麹がある。それ以外の麹もあるかも。紫芋系は清涼感といふか、上手く表現できないが、獨特な味はひがある。麹は赤米は著しく個性が強い。これは人によつて好き嫌ひが激しいと思ふ。紫芋+赤米といふ酒は見た事も無いし飲んだことも無い。今のところ存在しないのかも。俺の中では紫芋系と赤米系とそれ以外の3系統の味で分類されてゐる。分類の仕方が適切ではないが、味の系統はその3種類の分類で良いのではないかと思ふ。1口飲めば紫芋の燒酎なのか赤米の麹を使つてゐるのか普通の芋燒酎なのかは分かる。銘柄までは分からん。飲み比べれば分かる場合もある。舌にはあまり自信が無いし酒の專門家ではないから俺の意見は參考にしない方が良い。好き嫌ひの問題なのでどれが良いといふのは無いだらう。大叔父がどういふのを好むのか俺には分からない。選べと言はれても無理。どれでも良いのかもしれない。4年來ないうちに種子島の燒酎の種類が増えてゐるな。新しいやつを買つて歸りたくなる。でも2008年に大量に買つたやつがまだ飲み切れずに部屋に轉がつてゐるからな。結局親が適當に甘露の少し高いやつを買つてゐた。まあ無難なところだな。
段ボール箱をいくつか貰つて車に積み、古田へ。だいわの前の縣道76號を眞つ直ぐ行くだけだから樂だ。だいわの近くにヤマダ電機ができてゐる。まだ開店してゐないのかな。以前は車屋だつたやうな氣がする。ベスト電器がヤマダに買收されたといふニュースを見た氣がするんだがどうなんだらう。だいわと同じ建物にあるベスト電器がそのままヤマダ電機になるのかと思つてゐたが、違ふ場所に作るんだな。今のベスト電器の場所はどうなるんだらう。違ふ店になるのかな。種子島トンネルを拔け、ひたすら南へ向ふ。古田の町を過ぎて少し行つたところで右に入る。縣道76號を昨日とは逆の方向から來たといふこと。芋を激しく貰ふ。これは食ひ切れないかもしれないと思ふ量だつたが、結果的には足りないことになる。そんな1週間後の暗い未來のことなどこの時點では予想もできない。食ひ切れなかつたらどうしようなんて暢氣に考へてゐた。家に上がつて雜談。蠅が異常に多い。一人滿面の笑顏で蠅叩きを振り囘す。心が和む。積み上がる蠅の死骸。祖父母の家にある佛壇が欲しいやうなことを言つてゐた。疊とかサッシも欲しいみたいなことを昨日も言つてゐたが、疊とかサッシはもう家を潰す前提ぢやないとあげられないだらう。どうなるんだらう。
いつの間にか結構遲い時間だ。ふれあひの里へ歸る。叔父はまだ戻つてゐなかつた。從妹は勉強しながら寢てしまつてゐた。菓子を食ひながら休憩する。今日は親の同級生が飯を用意してここに來ることになつてゐる。宴會だ。1日3食なんて俺にはかなり珍しい。普段絶對あり得ない。でもこの種子島滯在中は無理してでもアホみたいに食ふぞ。體重を増やさねばならんのだ。家にゐると怠けて食べなくなる。かういふ強制的に飯が出て來るやうな時はそれほど頑張つて飯を食はうと意氣込まなくても食へるだらう。叔父が戻つて來た。しばらくして親の同級生も來た。
暇なのでふれあひの里を散策してみた。畑やビニールハウスや水車小屋がある。特に遊ぶやうなものは無い。川には小さい魚がゐる。種類は分からない。水車小屋の奧の「ふれあい堂」といふところに土足現金と書いてあつた。意味が分からない。土足で入つたら罰金取るよといふやうな意味を込めて洒落で書いてあるんだらうか。それとも單に間違へただけなんだらうか。一頻り歩いてから家に戻る。
もう飯の準備は大體できてゐた。どこからか蠅が2匹入つて來てゐた。鬱陶しい。ここには蠅叩きが無いんだよな。・・・あるぞ。今まで氣附かなかつたが、最初からあつたか?蠅叩きをキュッと握り締める。なんだこの吸ひ附くやうなフィット感。俺はこのために生まれて來たのではないかと思へてしまふほどだ。それにしてもこの握り心地、手に馴染み過ぎだらう。笑へて來る。何だこれ。
飯。特に種子島料理にこだはつたわけでもない普通の飯だが、キビナゴやミナもさりげなくある。モサモサ食ふ。罐チューハイを飲みながら。色んな話題が出るが俺はただ聞くのみ。古田の大叔父はうちの祖母と宗派が違ふので佛壇をあげても使へないのではないかとか。草ノ木の家に俺が住めば良いとか。俺は働けないから無理。まづは寶籤。今日親の從姉に貰つて來た角卷きもテーブルに置いてあつた。叔父が角卷きは種子島でしか見たことが無いと言ふ。灰汁卷きは他所にもあるが角卷きは無いのだと。叔父は高校教師なので轉勤で鹿兒島縣内の色んなところに住んだだらうが、それでも見ないといふことは種子島獨特のものなのかもしれない。それよりも俺には灰汁卷きと角卷きの違ひが分からない。同じものではないのか。可兒に歸つてから調べることにした。で、これを書いてゐるのは可兒に戻つた後なので調べてみた。どう調べても全く別物として扱はれてゐるがやはり俺には違ひがよく分からない。製法や材料はほぼ同じだと思ふのだが。竹の皮に包むのが灰汁卷きで葮竹の葉に包むのが角卷きなのか?味は違ふのか?角卷きはおにぎり型にする。その尖つた形が角卷きの名前の由來だとか。どこをどう調べても同じものとしては扱はれてゐない。角卷きは種子島・屋久島にしか無いらしい。明確に區別されてゐるといふことはやはり味も違ふんだらうか。よく分からん。失敗したな。その場で聞いておくべきだつた。聞けば種子島人達が猛烈に教へてくれただらうに。
また頑張つてアホみたいに食つた。滿腹になつてからが勝負。宴會は長々と續くので休憩して少し餘裕ができたらまた胃に詰め込む。昨日今日だけで相當食つてゐる。俺がこんなに食へるのかと自分でも驚く。筋肉や脂肪に變つてくれれば良いが、大半はウンコになるだらう。これだけ苦勞しても簡單には體重が増えない。デブの仕組みが分からない。だいぶ遲い時間までやつてお開き。
明日は朝からどこかの喫茶店で食ふらしい。明日は叔母2人はそれぞれ友達に會ひに行く。横濱の叔母はそのまま友達の家に泊まる。叔父と從妹は夕方の飛行機で歸る。うちの親は同級生と遊ぶ。俺は豫定無し。だが親について囘ることになるだらう。足が無いから引き籠もるかついて行くかの2擇だ。夜は俺と親と下の叔母の3人になる。晩飯はまたここで親の同級生達と。明後日はただ歸るだけ。ほとんど何もしてゐないのにもう半分終つた。明日もほとんど何もしないだらう。結局何もしないまま歸ることになりさう。まあ何もすることは無いんだけどな。
まだ寢るわけにはいかない。行政書士の勉強は午前中に12分やつたからもうやらなくても良い。いや、合格するためには時間の許す限りやらねばならん。でもまあ取り敢へず毎日やるといふノルマだけはこなした。それ以外に筋トレをやらねばならん。今日は腕立て伏せの日。圍爐裏の蓋になつてゐるテーブルが中途半端に10cmくらゐの高さなので丁度良い。その上に座蒲團を敷いて足を乘せ、床に手をついて負荷を増やして腕立て伏せ。何度か休憩を挾みながら100囘。あまりやり過ぎて明日激しい筋肉痛になつても困る。適當で良からう。ここから行政書士の勉強を甚だしくやつてみた。休憩を挾んで34分と52分。今日の合計で98分。死ぬほど大變。でも9月3日から始めて100分を超えたのが初日だけといふのがダメ過ぎるよな。恐らく150時間ほどやらねば合格できんだらうと思つてゐる。初日から毎日150分ぐらゐやらねばならんのに。半月經つてまだ8時間ぐらゐだ。その氣になれば1日でできる量しかやつてゐない。このままでは落ちる。今は種子島を滿喫することを優先すれば良いからそんなに必死にならなくても良いが、歸つてからが大變だ。犬土偶日記を書くのに膨大な時間を消費するだらうから、歸つてからもしばらくは勉強時間は増えないだらう。ますます合格が遠ざかる。
さて、今日は俺にとつて非常に重大な1日だ。日課のギター練習が今日途切れた。2010年8月2日に氣粉れでランダムに10曲彈いて、翌日も翌々日も同じやうに彈いて、何となく義務感が芽生えてしまつて途切れさせるわけにはいかなくなつた。どんなに眠くてもやつたし、どんなにパチスロで過勞死寸前でもやつたし、試驗前日の激烈にヤバい状況でもやつたし、インフルエンザで死にさうになつても無理してやつた。1日も休まず3年以上も續けて來た。計算してみると1139日だ。それが今日で終る。飛行機にギターを持ち込めなかつたからだ。ギターなんか別にどうでもいいだらうと言はれるかもしれない。だが、本氣で死にさうな時も無理して續けて來たことが途切れるといふのは途轍もなく重大なことだ。一度途切れてしまつたんだから、などと言つて頻繁に練習をサボるやうになつてしまふかもしれない。さうして練習しないのが當り前になればまた簡單に演奏力が落ちて行く。普通の日はこれまでと同じやうに彈くだらう。だが、死ぬほど疲れてゐる時はどうだらうか。逃げるために今日途切れたことを言ひ譯にしてしまふかもしれない。繼續は力なりと言ふ。何かに眞劍に打ち込んだ經驗のある人には實感を伴つて理解できるだらう。續けることは難しい。途切れたら氣が拔けてしまふ。そこから崩れて行くのが怖い。種子島に來ることを決めて飛行機の持ち込み手荷物のサイズを見た時に今日終ることが確定して豫め分かつてゐたことなのだが、やはりギターを彈かずに寢ると思ふと何とも言へない感情が沸き起こる。つひにこの日が來てしまつたんだな。
話題:種子島 2013年秋
公開日時 | 2013年09月26日 06時02分54秒 |
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本文文字数 | 24644文字 (タグ込み) |
URL | https://orca.xii.jp/br/diary/diary.cgi?id=dogoo;date=20130915 |
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