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犬土偶日記

海の近くに住みたい

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2007年09月23日

犬土偶旅行記 83日目 19時18分

公開日時: 不明

早朝に目が覚めた。朝6時前から俺以外の全ての人が起きてデカい声で騒ぐ。大人も子供も早朝からいきなりフルパワーだ。どういふ仕組みになつてるんだ。あまりにもうるさいので目が覚めてしまつた。7時半に起きるといふあり得ない事態。暇なのでギターを弾いて時間を潰す。久しぶりに弾いた気がする。指が動かん。

朝9時前に病院にゐる叔母から電話があつて、また祖母の状態が悪化したらしい。一昨日に危なくなつて親戚が集まつて来た時と同じやうな状態らしい。また瀕死の状態。慌てて家にゐた叔父と叔母と親が出掛けて行つた。叔父の奥さんと子供と俺は留守番。車が1台しか無いから全員一度に行くことはできない。行つても全員入るスペースは無いから厳しいんだけど。

今日も人が大勢来るやうだ。今、家と病院合はせて何人ゐるんだらうか。凄い人数だぞ。あと誰が来るんだらう。最高で何人になるんだらう。常に何人か多めに病院に泊まらせて貰はないと家だけでは収容できんぞ。

親達が出掛けてしばらくしてから、叔父の奥さんに買ひ物を頼まれた。大勢来るし飯の準備も大変なのでカレーを大量に作ることにしたらしい。肉とカレー粉とお茶等を頼まれた。浜津脇に小さい店があるが、肉を売つてるか分からないし、今日は星原小の運動会で地元民はみんな小学校にゐるし、何より日曜だからやつてゐない気がした。小学生はほんの数人しかゐないが、運動会を成立させるために地元の老人達が参加して老人の運動会みたいな感じになるやうだ。祖母が元気ならみんなで行つたかもしれんが、今はそんなのに参加してゐる状態ではない。10km程度あるがAコープまで行くことにした。小学校の前に車が大量に停まつてゐた。どこからこんなに集まつて来るんだらう。

Aコープに着いて携帯を見たら親から着信があつた。熊野漁港に行つた時は原付に乗つてても着信音が聞こえたが、今日は聞こえなかつた。病院へ行つた時間を考へると着いてすぐぐらゐに掛けて来たんだらう。何かあつたんだらうかと不安になりながら親に掛けてみたが、繋がらない。取り敢へず買ひ物を済ませることにした。だが問題発生。どんな肉を買へば良いのか分からん。カレーなら牛肉だらうか。でも高い。豚と鶏で良いだらうか。まあ適当に買ふことにした。カレー粉は1箱で10皿分らしい。2箱で足りるだらうか。3箱にしようか迷つたが、余るとカレー地獄になるので控へめに2箱。買ひ物を済ませて外でまた親に電話してみる。今度は繋がつた。今日は人が多く来るから出掛ける時は鍵を閉めずに出掛けろだとさ。祖母は瀕死の状態から落ち着いて安定してるとか。落ち着いたとか安定してるとか言つてもこんなに頻繁に病状が激変するのは危ない。次悪くなつた時に生きてゐられる保証はない。

しばらくして親と猫の叔母を残して全員が帰つて来た。昨日種子島に来て病院に直行して泊まつた一番下の叔母に久しぶりに会つた。その旦那さんは初めて見た。またしばらくして叔父は家族を連れて病院へ行つた。人が頻繁に入れ替はる。総人数が着々と増えながら家と病院にゐるメンバーがめまぐるしく入れ替はる。誰が来てるのか把握してゐない。これから誰が来る予定なのかも知らない。でもまだ大勢来るらしい気配。寝る場所が無くなるかもしれない。叔父はまた出掛ける。空港に寄つて増員して病院へ。

上の段落を書き終つた頃に親から携帯に電話が掛かつて来た。緊迫した様子で叔母に代はつてくれと言ふ。家の中で電波が悪いので途切れまくり。よく聞き取れないし今にも切れさうだつたが叔母に代はつた。すぐに来れるかとか言つてたらしいが切れてしまつた。何か緊急事態だらうと思つて2人の叔母が自分の携帯で親とか叔父とかに電話してゐたが、かういふ時に限つて絶望的に繋がらない。家の電話に掛けて来れば良いのにと思つたが、後で聞いたら家の電話の調子が悪いのか、繋がらなかつたらしい。俺の携帯で何度も親に掛けて漸く繋がつたので叔母と代はつた。また祖母の容態が急変したらしい。朝は相当危なかつたが、持ち直したやうなことを言つてゐた。でもまた悪化してしまつたらしい。病院側は人工呼吸器を着けたいらしい。本人も相当苦しかつたやうだ。人工呼吸器を着けると二度と話せなくなる。やつても良いかと叔母に聞くために電話を掛けてきたらしい。本人が相当苦しんでるだらうことはこれまでの発作を見れば分かる。肺炎はどんどん酷くなつてるやうなのでますます苦痛は激しいだらう。人工呼吸器を使ふことになつた。

慌てて病院へ向かふ。車が無いのでタクシーを呼んだ。一番下の叔母の旦那さんは海の方に散歩に行つてゐたので俺が捜しに行くことになつた。岩場に下りて一番デカい岩に登つて捜したがどこにも見当たらない。一度家に帰つたら叔母が携帯に電話して呼んでゐた。最初からさうすれば良かつたのに。タクシーが来るまでの間に戸締りをしたりして準備。タクシーで病院まで5320円もした。恐ろしい値段だな。病院まで距離は25kmぐらゐだらうと思ふ。2階に上がつてみると結構人がゐた。祖母はもう人工呼吸器を着けられてゐた。気管の奥までチューブを入れる。横隔膜の動きとは関係なくポンプで強制的に空気を送り込む。気管に異物が入ると反射で咳き込むし、機械の強制的な呼吸と自分の呼吸が干渉すると拙いことになる。だから鎮静剤で意識を飛ばして筋肉も麻痺させる。機械による強制的な呼吸で生命維持を優先するといふことだ。もう喋れないだけでなく意識も無い。この状態で肺炎が良くなつて自力で呼吸できるまで肺機能が回復すれば人工呼吸器を外して元に戻ることもあるかもしれない。だが可能性は低いのではないかと思ふ。

レントゲンを撮つて説明を受けた。21日と比べて肺炎はますます悪化してゐるらしい。やはりATLのリンパ腫の細胞が肺に浸潤してきてゐるらしい。左肺に腫瘍みたいなのもできてゐた。一昨日は無かつた場所に碁石ぐらゐの腫瘍ができてゐた。腫瘍といふのはそんなに凄い勢ひで大きくなるものなのか。もう自力で呼吸するのはキツい状態らしい。たぶんこのまま悪化して行くだらうと言はれた。薬で意識が無い半植物状態のまま治療を続けて少しづつ悪くなつて亡くなるのではないかといふ状況。人工呼吸器を使はなければ恐ろしい苦痛を長時間味はつて窒息死してしまふ。人工呼吸器を使へば本人の苦痛は無くなるが回復しなければ薬で意識を飛ばされてゐるので本人にとつてはもう生きてないのと同じやうなものだらう。人工呼吸器を使ふために払ふ犠牲が大き過ぎる。人工呼吸器を使はずに回復すれば良かつたのだが、もうここまで来るとダメかもしれない。原因は分からんが血液中のカリウムの濃度が高くなつてゐるらしい。そのせゐで心停止を起こす可能性もあるとか。

しばらく病院にゐたが、誰がゐても何も変はらないので帰れる人から帰ることになつた。俺と一番下の叔母夫婦は祖母の弟の車で送つて貰つた。しばらくして叔父の車と誰かの軽トラで続々と帰つて来た。病院に残つたのは親と猫の叔母。

夕方に親から家に電話が掛かつて来た。祖母の血圧が異常に下がつてゐるらしい。看護士達の対応を見てると危ない感じがするさうだ。まだ医者や看護士からは何も言はれてないが、病院に来た方が良いのではないかといふことらしい。全員では行けないので叔父や叔母が車で行くことになつた。坂の下に住んでるおばあさんも乗せて行くつもりだつたやうだが、準備ができてないからといふことで行かなかつた。

しばらくしてまた電話が掛かつて来た。叔父の奥さんが電話に出て話してゐたが、家族を集めるやうに言はれたらしい。俺と一番下の叔母の旦那さんと叔父の家族が残つてゐた。タクシーで行かねばならんがそれでも乗り切れない。祖母の弟が病院に行く途中で寄つてくれることになつた。タクシーか祖母の弟が来るのをしばらく待つた。違ふ親戚が来てくれてその車に俺と叔母の旦那さんが乗る。叔父の家族は後からタクシーで行くことになり、祖母の弟には病院へ直行するやうに連絡した。

車で病院へ向かふ途中で親から電話が掛かつて来た。状況を聞いたら、もう時間の問題らしいと言ふ。血圧が異常に下がつたままらしい。もう人工呼吸器の機械的な呼吸のみで心臓が動いてゐるやうな状況なのかもしれない。病院に着き、急いで病室へ向かふ。叔母達が泣いてゐた。猫の叔母は元看護婦なので分かりたくないことも分かつてしまふのだらう。その場の空気を見るともうほとんど助からんみたいな感じだつた。一昨日の午後に急変してから回復し、また大丈夫さうな感じになつてゐたのに、また急変して呼吸が苦しくなつた。肺は一昨日よりも悪化してゐた。最終手段の人工呼吸器を使つて次の治療を始めようといふところだつた。まさかその日のうちにこんなことになるとは。

続々と親戚が集まつて来る。猫の叔母の旦那さんと従弟も来た。昔小牧のマンモスといふライブハウスでBeginner's Rockのライブをやつた時に見に来てくれた人達だ。新幹線と船で種子島に来て、牧川でバスを降りかけたところで叔母から電話が来てそのまま降りずに病院へ直行して来たらしい。祖母の状況を弟にメールで知らせたら明日種子島に来ると返信が来た。

強心剤を何本も注射するが、一向に血圧が上がる気配が無い。つひに最期の時が来た。強心剤を打つても何の反応も無い。残念ですが・・・と医者が言ふ。19時18分。享年76歳。最後は急激に肺にATLが広がつて恐ろしい勢ひで悪化して行つた。人工呼吸器を入れたその日に亡くなるとは思つてなかつた。本人も死ぬつもりは無かつただらう。呼吸が苦しくて苦しくて、早く人工呼吸器を着けてくれと言つてゐたらしい。本人にとつては高熱が出た時に座薬で熱を下げるぐらゐの感覚だつただらう。呼吸を楽にするために機械を着けてくれと頼んで鎮静剤を打たれたのが本人の意識の最後。普通の肺炎だと種子島の病院も鹿児島の大学病院も家族も最初は思つてゐた。血液検査の結果も良かつた。だが検査に出ないところでATLが肺に侵食して来てゐた。長い間ATLは治まつてすぐに死ぬやうな状況ではなかつた。元気だつたのに8月末に急に高熱が頻繁に出るやうになり、何度か病院で検査を受け肺炎だと診断された。肺炎の治療を続けたがあまり芳しくなく、それは免疫力低下のせゐだらうと思はれてゐた。高熱が頻繁に出て、熱が出てる時は死にさうな状態に見えたが、座薬等で熱を下げるとある程度元気になつてよく喋つてゐた。熱を薬で抑へながら時間を掛けて肺炎の治療をすれば治ると思つてゐた。肺炎さへ治ればまたしばらくは大丈夫だらうと思つてゐた。だが肺炎は徐々に悪化し続け、体力は少しづつ衰へ、最後は致命的に肺が侵されて呼吸できないほどになつてしまつた。何度か持ち直したが、肺の急激な悪化は止まらず、人工呼吸器を着けることになつてしまつた。それでもまだしばらく大丈夫なのかと思つてゐたが、もう祖母の体力は限界に達してゐたらしい。入院して2週間。高熱が出てゐてまともに歩くこともできず、早く熱を下げるために病院へ行かうと必死に頑張つて叔父の車に乗り込んだ9月10日が生きて家にゐた最後になつた。本人はまたすぐに帰つて来るつもりだつたに違ひない。無念。でも長い入院生活の間に本人にも予感があつたのかもしれない。親や叔母が病室に泊まり込んで看病してゐた時に昔の事などを延々と喋つてゐたらしい。一昨日に近所の人達が見舞ひに来た時にも相当色んなことを話してゐたらしい。元々喋るのが好きだつたのかもしれないが、もうすぐ死ぬかもしれないと感じてゐたのかもしれない。

猫の叔母の旦那さんと従弟は本当にギリギリのタイミングで祖母の最期に立ち会へた。だが人工呼吸器を着ける前の意識がある時には間に合はなかつた。祖母とは何十年といふ付き合ひの、坂の下に住んでたおばあさんは一寸したズレで立ち会へなかつた。俺は最初に急変して親戚が集められた日に病院に泊まつて早朝に帰る時が意識のある時の祖母に会つた最後になつた。何もかもが急だつた。もうこれからしばらく意識は無いけど、取り敢へず今日は大丈夫だらうとみんな帰つて来た直後だつた。ほんの少し前まで元気だつたのに。

急なことだつたが、先のことを考へねばならん。どうすれば良いのか俺には分からん。叔父が自分の車で家に連れて帰るみたいなことを言つて周りの人達に葬儀屋に任せた方が良いと言はれたりしてゐた。病院の人にも色々聞いたりして手配する。親や叔母が祖母を着替へさせたり化粧をさせたりしてゐた。弟は明日来ると言つてゐるが飛行機のチケットは確保できたんだらうか。祖母が亡くなつたことを知らせ、電話で明日どうするのか話したりした。飛行機は空席があるらしく何とかなりさうだと言ふ。とにかく家に帰らねばならん。通夜や葬儀の準備等がある。親戚が病院に大勢集まつてゐるが、帰れる人から帰ることになつた。通夜や葬式に人がたくさん来るのでお茶とか色々買はねばならん。家も片付けねばならん。俺はあまり役に立てないから後で帰るつもりだつたんだが、仏壇の前にあるテーブルに俺のノートPCやらギターやら本やらが散乱してゐる。玄関入つてすぐの場所だし仏壇の前だし、それを片付けないわけにはいかない。最初に帰ることになつた。

ペットボトルのお茶を大量に買つて帰ると、誰かが連絡してゐたらしく集落の人達や病院に来てなかつた親戚達が集まつて準備を始めてゐた。外まで電気のコードを引いて明るくし、台所では食ひ物や茶が用意されてゐた。家の中もみんなで片付ける。俺は適当に自分の物をカバンに詰め込んで奥の部屋にブチ込む。大変なことになつたんだと改めて思つた。物凄く慌しい。

病院にゐた親戚も続々と帰つて来る。誰が残つてゐて誰が帰つて来たのかも分からない。凄い人数が集まつてわけがわからない状態。一昨日の朝に病院に見舞ひに行つて長時間楽しく話してゐた人達は驚いただらう。ATLのことはほんの限られた人にしか話してゐなかつた。祖母の兄弟にも話してゐなかつた。知つてゐてもこんなに急激に悪化して亡くなるとは思つてなかつた人が多いぐらゐだ。みんな急なことで混乱気味。

しばらくして遺体が家に運ばれて来た。いつも祖母が寝てゐた奥の部屋に寝かせる。ずいぶん遅くまで慌しく準備してゐた。通夜や葬式をどうするのか叔父や叔母や親戚や葬儀屋で色々と決め、葬式で使ふ祖母の写真を探したりして大変だつた。祖母の具合が悪くなつたから遠くに住んでた人達も集まつて来てゐた。まさか亡くなるとは思つてなかつただらうと思ふ。祖母が亡くなつたことによつて病院に泊まることができなくなつた。葬儀の準備等でますます寝るスペースも無い。何だかんだで深夜2時ぐらゐまで起きてゐたやうな気がする。何人ゐたのかも分からない。通夜は24日、告別式は25日。しばらく慌しい日々が続く。病院にゐた親から血圧が下がつてゐると電話が掛かつて来た辺りまでは当日の夕方に書いてゐたが、それ以降は27日や28日に時間を見つけて書いてゐる。日記を書く余裕など無い日々だつた。ハエを殺戮する時間はあつたけれども。無理をしてでも当日に書いた方がリアリティのある文章になつただらうが、人が多過ぎて日記を書けるやうな状況ではなかつた。ハエは無理してでも殺すけれども。

祖母と過ごしたのは生涯で何日あるだらうか。滅多に種子島に来れないからかなり少ない時間だらう。たぶん4ヶ月程度ではないかと思ふ。その大半は今年7月から亡くなるまでの時間。子供の頃のことはほとんど記憶に無い。祖母の最後の3ヶ月、入れ替はり立ち代り色んな人が来たが、最後一番長く一緒に過ごしたのは一番ダメな孫の俺だつた。色々と迷惑を掛けた。もしかしたら俺がゐたことで寿命が少し縮んだかもしれない。初孫の俺が真つ当な人生を送つてゐれば曾孫の顔を見せてあげられたかもしれない。PCで遊んでる俺を見て事務の仕事をやればいいんぢやないかとよく言つてゐた。縄文杉を見に行く時に山で遭難しないやうに気をつけろと何度も言はれた。最後まで無駄な心配を掛けてしまつた。

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本文文字数6824文字 (タグ込み)
URLhttps://orca.xii.jp/br/diary/diary.cgi?id=dogoo;date=20070923
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