海の近くに住みたい
公開日時: 不明
宗教の説法会みたいなのに誘われた。椅子タンの家族が某宗教に嵌まっていて、飯を食わせてもらいに行った時とかによくそれ系の本を薦められたりして、何もせずにボーっとしてるのが狂おしいほどにイヤなので読んだりしてたんだが、別に宗教そのものには何の興味もない。俺にとって必要なものだとはどうしても思えない。1回そういう集まりに行ってみないかとか言われたりしてたけど適当に流したりしてた。どういうものかという事には多少興味があるから行ってみたい気はするのだが時間が勿体無いしなかなか積極的に行こうという気にはなれない。で、そういう流れで椅子タンが行くことになった。どうやら理詰めで論破してみようとか、そういう気持ちがあったらしい。前の日にバンド練習行く前に一緒に来ないかと椅子タンに誘われ、たまにはそういうのもいいかなと思って行くことにした。しかし朝まで起きてて当日は死にそうにつらかった。昼過ぎに迎えに来ると言ってたので短時間でも寝ようと思い、無理に寝た。椅子タンが迎えに来て無理矢理起きたんだがめちゃめちゃ気分が悪かった。もう無理!二度寝しよう!と思ったんだが、せっかく起きたのに寝るのは勿体無い。無理に起きてついていった。弟も連れて。前提として死後の世界があって魂の輪廻転生云々という典型的な仏教思想がある宗教。文化としての宗教、儀式としての宗教は俺は否定しない。身内が死んだら葬式出すとか火葬して墓に埋葬するなんていうのも宗教的な儀式だ。死んだらそれで終わりというなら死んだらただのタンパク質の塊なんだから生ゴミに出せばいい。しかしそういうわけにはいかない。腐るとヤバイとか法に触れて死体遺棄で捕まるとか、そういうことではない。日常的に文化として、慣習として存在してる宗教的なことは何も否定する気はない。宗教というのは本質は死への恐怖を紛らわすためのものではないのかと思う。死んだら子孫や後の世界に何か遺すとしても自分自身はそれまでの人生全てが無駄になって消滅するというのが怖いんだろう。だから死後の世界なんていう幻想が実在するものと決め付けてそれを前提にあれこれ構築した物語にすがって人生の充実感を味わうとか後悔や恐怖をなくそうとか、そういうことじゃないんだろうか。死後の世界があると証明することはできないが、ないと証明する事もできないと言われた。確かにそうだ。だからといってそれが死後の世界を肯定するに足る根拠とはなり得ない。感心したのは、「ないと言うならそれを証明しろ」とは言わなかったことだ。証明すべきは死後の世界がある派の側なのだから。例えば「俺は超能力者だ!」と言った場合、だったら証明して見せろと言われるだろう。そこで「俺が超能力者であることを疑うのなら俺が超能力者でないことを証明してみせよ!」と言ったらどうなるかということだ。もっと身近に法律で例えるならば、殺人容疑で逮捕して刑罰を与えようとするならば殺した証拠を提示しなければならない。殺してない証拠がないんだから殺したに違いないなんて言われたらその場で全員殺して晴れて殺人犯になってあげるよって話ですよね。こうやって書くと俺は死後の世界とか魂とかそういうのを全否定してるようにも見えるかもしれないがそうではない。別にどっちでもいい。存在するのかもしれないし、存在しないのかもしれない。どっちだかわからない。判断する材料がない。存在したとしたらどうか、存在しなかったらどうか、と両方仮定してどっちでも損しないように振舞えば良いのではないかと思う。あの世が本来の世界でこちら側は魂の修行の場みたいな事を言われた。何もかもを信じるとするならば、現世では自分の丈に合わない冒険を冒して周りの人間に迷惑かけたりせずに自分のできる範囲の幸福を追求することがいいということになろうか。ちょっと無謀だと思えても頑張ってみれば歴史に名を残すような大きな仕事ができるかもしれない可能性を捨てるということに繋がるかもしれない。それでも確実性の高い幸福を追求して生きていくことを目指し、宗教関係の本を読みまくって勉強して集まりにも出掛けて行って布教活動をして・・・膨大な時間を宗教に割くということ。もしそれで死後の世界が存在しなかったらどうだろう。激しく時間の無駄ということにはなるまいか。だが逃げ道はある。死が全ての終わりなら、死んだことにすら気付かない。人生が完膚なきまでに無駄だったとしてもそれを悔やむことすらできないわけだ。本人は幸せだったと思ったまま死ねるんだ。逆に死後の世界や魂なんか存在しないと仮定して生きるとしよう。死は全ての終わり。二度と生まれてくることのない人生。不幸になるよりは幸福になったほうがいいに決まってる。幸福の価値観は人それぞれ違うだろう。無駄に金持ちになることだけを幸せと思えるウンコもいるだろうし、好きな人と結婚してささやかながら楽しく生きることが最高の幸福だと思う人もいるだろうし、世界で一番高いビルを建設するのが夢で常に高さのみを追求してビル建設に打ち込む人生が最強だと思う人もいるだろう。それぞれ違うとしても自己満足を最大限に追求する人生になるだろう。その結果、目的が達せられずに不幸になる場合も多くあるはず。妥協せずに高みを目指せば高確率でヤバイことになる。場合によっては人間関係がボロボロになったりするかもしれない。それでもたった一度の人生だからと死に物狂いで生きてみる。それで目的が達成できればOK、ダメなら死ぬ時に後悔する。その生き方をしてて死んだ後の世界があったとしたらどうだろう。場合によっては地獄に落ちるということにもなるだろう。こんなことになるならもっと無難な人生を歩めばよかったと後悔するかもしれない。だが俺が思うに、何度も生まれ変わるのならば、むしろ生まれ変わるからこそ一度ぐらい失敗の人生があってもいいじゃないか。生まれてくる時には前世の記憶や経験や技術は消滅するんだろ。何もかもが無駄じゃないか。何度でも繰り返すなら危険を冒してでも上を目指すべきだと思う。失敗して地獄に落ちてもまた生まれ変わるんだろ?成功するまで苦しみ抜けばいい。そもそも生まれてくる時に記憶がリセットされて無の状態から生まれてくるってのが怪しいよな。それまでの輪廻の積み重ねが全て無駄だということでしょ。なんのために繰り返してるのかと。意味がないじゃないか。修行とか言うけど後に何も残らないことが何の修行になるんだ。そもそも死後の世界とか魂とかどういうシステムになってるのか詳しく教えてくれよ。システムというか設定ね。何で一部の人間だけが知っているのか。魂の総量はどうなっているのか。ここ数十年の間に人口が激増したが魂の量も増えているのか。他の動物にも魂はあるのか。それはあるだろうな。生物は進化し続けて長期間同じ形式を保ってはいられない。人類だって数百万年前は遺伝子的に今と違う。人にしか魂を認めないなら猿からの進化の過程のどこかで決定的な魂獲得の瞬間があったということになる。そうやって考えるのは無理があるだろ。ということはあらゆる生物に魂が宿っているということになる。転生輪廻とか言ってもう一度人間に生まれ変わる確率なんて宝くじに1000000回連続1等当選よりも遥かに確率が低いぞ。バクテリアや線虫類や昆虫類、他にも無数に蠢くやつらに生まれ変わるのが落ちだ。生きてる自覚すらない生物だ。それに生まれることがどうして魂の修行になるだろう。ただ本能のままに生きることだけしかできない。何億回繰り返しても進化以外に成長はない。それでも生まれて死ぬ事が修行だというならどういう生き方をしてもいいということにならんか?ただ生きるだけでOKじゃないのか。高等動物に生まれて思考能力が備わってるからといって特別な人生を送ろうとか思う義務があるとでもいうのだろうか。死後の世界を信じてないやつが死ぬと自分が死んだことにも気付かないからもう生身の人間じゃないと教えてやるために何度も殺し合いをさせたりしてもう死なないことを体験させて生きてる時と違うって気付かせてやるみたいなことも言っていた。つまり、生前の記憶を持ったままあの世に行けるということ。リセットされるのはいつだ?生まれる瞬間か?線虫の人生を終えてあの世に行ったとしよう。何の記憶を持っているというのか。生きてるか死んでるかさえもわからない。そういう奴の魂はどういう基準で天国と地獄に振り分けられるのか。魂の生死というのもあることになっているのだろうか。輪廻の範囲は地球のみなんだろうか。色々とつっこまれてもいいように細かい設定まで宗教家は考えてあるはずだ。部分的に苦しいところもあるだろうと思う。そういうところをどうやって切り抜けるのかとか、そういうことに興味がある。よく漫画家が自分で考えた設定に苦しめられてストーリー変更を余儀なくされたりするが、それに似た感じじゃなかろうか。まぁ結局俺は真剣に宗教を考えた事はないということだ。必要ないからだ。霊を見たこともない。だがウンコ色のエネルギーという悪霊の存在だけはガチ。死後の世界とかを信じるに足る根拠や体験はないし信じて得られるメリットも見いだせない。かと言って強烈に拒絶する理由もないし、それによって得することもない。だからどうでもいい。今の俺には必要ない。ろくに考えもせず適当に書き殴ってるだけだから俺の文に反論しようと思えば無尽蔵にツッコミポイントがあるだろうが、そもそも真剣に語ってないのでツッコミは不要です。
余談だが、会場に向かう途中、椅子タンの妹が可児高出身の俺と同い年の女がいるといっていた。名前を聞いた。でも知らない。同い年でも1個学年違うのかもしれんなと思ってた。行ってみて実際に会っても全く覚えてない。知らない人だった。完璧に。しかし!なんと話を聞くと学年が同じというばかりではなく、クラスまで同じだったというではないか。同じ13期で担任の名前も同じ。でも覚えてない。顔見ても思い出せん。話しても何も思い出すことはない。ほんとに居たのか?卒業アルバムを見ればもしかしたら思い出すかもしれない。でも多分無理。高3の時、現役時代ですら卒業式の日になっても顔と名前が一致しないのがたくさんいた。前にも言ったと思うが、人物に対する記憶力が驚異的に悪い。笑えるほどに覚えてない。ネットで知り合った人とか1回会っても全く顔覚えてないからな。次会う時は隣にいても声掛けられてもその人だという確信が持てなくて不安だったりするね。このサイトの掲示板に最近書き込んでくれたのぶながさんには1回SURFACEのライブで会ったことがあるんだけど、もう全く顔覚えてないよ。なんで俺こんなに人の顔とか名前とか覚えるの苦手なんだろう。他の記憶力は結構いい方だと思うんだがな〜。
◇犬土偶 Selection #046
チョット / 大黒摩季
3rd Single「チョット」
2nd Album「DA・DA・DA」
Best Album「BACK BEATs #1」
Best Album「BEST OF BEST 〜All Singles Collection〜」Disc1
Being系全盛期の曲。高校入ったばっかりの頃かな。何故か高1の頃のことはよく覚えてる。この頃が俺にとっても全盛期だったかもな。色んな意味で。夏休みに種子島に行ったのとか冬にスキー研修行ったのとか、いろいろ思い出すな。犬土偶Selectionの中に92年ごろの曲が結構高い割合で入ってるね。あの頃の俺は10年後の自分がこんな風になってるとは全く予想もしてなかっただろうな。人生って素晴らしい。
公開日時 | 不明 |
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URL | https://orca.xii.jp/br/diary/diary.cgi?id=dogoo;date=20040307 |
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